大判例

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名古屋高等裁判所 昭和35年(お)4号 決定 1961年4月11日

請求人 吉田石松

右弁護人弁護士 円山田作

同 渡辺御千夫

同 森茂

同 上田直吉

同 有松祐夫

同 後藤信夫

同 荻山虎雄

同 小田良英

同 高井吉兵衛

同 加藤義則

同 小川剛

同 若山資雄

右吉田石松に対する強盗殺人事件について、大正三年七月三十一日名古屋控訴院が言渡した判決(同年十一月三日大審院において上告棄却の判決があり、同日確定)に対し、同人から再審の請求があつたので、当裁判所は請求本人、弁護人並びに検察官の各意見を聴いたうえ、つぎのとおり決定する。

主文

本件について再審を開始する。

理由

第一、再審事由の要旨

本件再審請求の理由とするところは、弁護人円山田作等十二名共同名義の再審請求書に記載するとおりであるが、その要旨は、請求人は強盗殺人被告事件につき大正三年七月三十一日当裁判所(当時名古屋控訴院)において請求人が大正二年八月十三日北河芳平、海田庄太郎の両名と共謀し戸田亀太郎を殺害し金一円二十銭在中の財布一個を強取したという理由で無期懲役に処せられ、上告の申立をしたが、上告棄却となり、右有罪判決はここに確定し、請求人はその刑の執行を受け了つたものである。しかしながら請求人は毫も原判決認定のような強盗殺人の犯行に加担したものではなく、全く関知せざる事実であるから、つぎの二つの理由によつて再審の請求をなすものである。すなわち、

(一)原判決において請求人の有罪の証拠とされている共犯者という(1) 海田庄太郎の原審公判における証言、(2) 北河芳平の予審調書並びに原審公判における証言は右両名のその後における供述によつていずれも虚偽であることが明となつた。しかるにすでに右海田庄太郎については偽証罪の公訴時効が完成しており、また右北河芳平も死亡しておるため、いずれもその偽証罪につき確定判決を求めることができないので刑事訴訟法第四百三十五条第二号、同第四百三十七条によりその各証言が虚偽であつた事実を証明しようとするものである。

(二)原審において有罪判決の言渡を受けた請求人に対し無罪を認めるべき明な証拠として花村志づ、堀場貞助等の供述のようなきわめて有力な証拠があらたに発見されたので、これらの証拠によつて事件当夜における請求人のアリバイの成立を明にし同法第四百三十五条第六号により本再審請求に及ぶというのである。

第二、本件事案の概要

本件再審請求の記録を精査するに、請求人石松は所論の強盗殺人事件につき、大正三年四月十五日名古屋地方裁判所において、請求人が北河芳平、海田庄太郎の両名と共謀の上、大正二年八月十三日戸田亀太郎を殺害し金一円二十銭在中の財布を強取したという理由で死刑に、右芳平、庄太郎の両名は夫々無期懲役に処せられ、芳平、庄太郎は直ちに服罪したが、請求人は当裁判所(当時名古屋控訴院)に控訴したけれども、大正三年七月三十一日死一等を減ぜられたとはいえ、結局芳平、庄太郎と同様無期懲役に処せられ、さらに上告したが、同年十一月三日大審院の上告棄却の判決があつて、ここに前記控訴判決は確定しその刑の執行を受けるにいたつた。しかし作ら請求人は右被告事件については、終始一貫その犯行を否認し続けていたもので、右判決確定後もつねに寃罪を訴え、入監後も囚衣をまとい労役につくを肯ぜず、ために不労囚の烙印のもとに北辺の網走刑務所におくられ、その間懲罰を受けること実に五十有三回に及んだけれどもあくまでこれに屈せず、再審の請求をなすこと数回、司法大臣に対し請願をなすことまた数回いずれもその目的を達するには至らなかつた。かくて斗争嘆願に明けくれている間に二十有余年の歳月が流れ、昭和十年三月二十一日漸く仮釈放の恩典に浴し、秋田刑務所を出所したのであつた。しかし請求人は出所するや、その足で直ちに秋田警察署に赴いて右庄太郎、芳平両名の所在捜査を依頼し、爾来屑屋となつて諸所を彷徨し、右両名の所在を捜しもとめその寃罪を叫びつづけているうちに、ついに報道関係者の協力を得て、両名の所在を捜しあて、記者立会のもとにこれと会見し、夫々請求人を寃罪におとしいれたことを認める詑状や覚書をとることができたので、昭和十二年中またも大審院に再審請求に及んだのであるが、いかなる理由によるものか、これまた太平洋戦争が苛烈をきわめていた昭和十九年中ついに棄却されてしまつた。かくて終戦を迎え、請求人は皈農したが、その窮乏の時代においてもいささかも不義不正に組しない行と、少しも前科を隠そうとしないで一途に寃罪を叫び続ける同人の声は次第に村民の胸をうち、隣接町村六百名にのぼる再審嘆願の署名となり、さらに法務省人権擁護部の活動をみるまでにいたつたものである。そこで請求人は畢世の願をこめ昭和三十二年当高等裁判所にまた又再審請求の申立をなしたが、やはり資料十分ならず、昭和三十四年七月十五日棄却されるにいたつたが、多年探しもとめていた花村志づ、堀場貞助等をついに捜しあてたので、齢すでに八十歳をこえ、余命いくばくもない請求人としては、もしこれが寃罪とすれば、青天白日の身となりうるおそらくは最後の機会として、本申請がなされるにいたつたものなることが窺われる。

第三、第一、二審判決の検討

本件再審請求は叙上の如く、その対象たる判決がすでに大正三年十一月三日に確定したもので、その強盗殺人事件なるものはいまを去る四十数年前のできごとである。しかもその間太平洋戦争の相重る戦禍によつて、その事案の訴訟記録はほとんど焼失し、わずかに第一、二審判決をとどめるに過ぎないのであるが、さいわいこの二つの判決にはいずれもきわめて詳細な証拠説明がなされているので、まず右両判決を仔細に対比検討することによつて、本件再審理由の当否を判断する資とするほかはない。

(一)認定事実について、

第一、二審判決の罪となるべき事実の記載は共犯者三名にかかる強盗殺人事件のそれとしては異例なまでにいずれもきわめて簡潔なものであるが、しかもこの両者の内容を比較検討してみると、つぎのような重要な諸点において両者はことごとく、その認定を異にしていることが一見して明である。もとより第一、二審判決の認定の相違もそれ自体としては何んら怪しむに足りないが、ただどうしてかように多くの重要な諸点に関し認定の相違を来たしたかについてはなお深く探究すべきものがあるようにおもわれ、本件事案における事実の認定がいかに困難をきわめたかを窺い知ることができる。両者の認定の相違点はつぎのとおりである。

(1)犯行の動機と犯意を生じた時期、

第一審判決では八月十三日請求人石松が繭の空篭を載せた戸田亀太郎を見て、同人が繭の売却代金若干を所持しているものと思い、これを強取しようという悪心を起し、そのことを庄太郎と芳平に諮つたというのに対し、第二審判決では八月十三日夜請求人石松、芳平、庄太郎の三名が亀太郎を殺害し、その所持金を強奪せんことを企てとあるのみで、犯行の動機や犯意を生じた時期についてはなんら判示されていない。この点はとくに認定の相違というほどのものではないが、第二審判決にいたつてこのような漠然たる認定がなされるようになつたことがまず看過されてはならない。

(2)芳平の玄翁による殴撃についての使嗾者、

第一審判決では請求人石松が芳平をうながして亀太郎の背後から玄翁で同人の頭部を殴撃させたとあるのに対し、第二審判決では請求人の指図が削られ、芳平自ら亀太郎を殴撃したように判示されている。

(3)被害者の褌を外しその頸部に巻きつけた者、

第一審判決は庄太郎が亀太郎の兵児帯をノミで切断してその着衣を解き、褌を外してこれを同人の頸部に巻きつけたと判示しているのに対し、第二審判決は請求人が亀太郎の褌をはずし頸部にまきつけたと判示している。

(4)被害者の財布を強取した者

第一審判決は庄太郎が亀太郎所持の一円二十銭在中の財布を強取したとしているのに対し第二審判決は請求人がこれを強取したものとしている。

かようにみてくると、第一、第二審判決における事実認定の相違は被害者が殺害され金品をとられていたという罪体事実に関する認定と請求人が尺八で被害者を殴打したという点を除いたほとんど全部にわたつているといつても敢て過言ではない。果してそうだとすると、かような全面的ともいうべき事実認定の相違がどうして生れてきたかという点について、つぎに両判決の引用証拠を対比して仔細に検討してみなければならない。

(二)援用証拠について

まず第一審判決の引用する請求人の有罪の証拠のうち、庄太郎、芳平の各供述調書は暫く措き、小野瓢郎の鑑定書によると、請求人の着衣に人血が附着していたことが窺われるが、右鑑定書には、請求人の着衣たる「単衣に存する九個の汚点中暗褐色の一小斑点は人血に基因するものと認む」とあるのみで、証第八号の玄翁に存する暗褐色の斑点や、芳平が犯行当夜着用していたという証第三号の単衣に存する五個の汚点が同鑑定書によつて明なように悉く人血に基因するものであるのとは大いに趣を異にしている。血液型の研究の進歩していなかつた当時としては、その九箇の汚点の中の右一小斑点が人血に基因するということ以外にはこれを究明する術もなかつたのであろうが、判示によると、芳平が玄翁をもつて亀太郎を殴撃しその直後請求人がさらに尺八で右亀太郎の頭部を連打したというのであるから、請求人の単衣にも芳平の着衣と同様、相当な返えり血を浴びるのが通例(もとより稀な例外がないとは云えないであろうが)であるのに、九箇の汚点のうちわずかに一小斑点のみが人血にとどまるというのはいかなる理由によるものであろうか。ことに同じく引用の検証調書によれば、被害者亀太郎が倒れていた附近は「血液の飛沫は篭並に車体の一部を染め又は破損せる管笠、提灯、手拭等は附近に散乱し、なお暗紅色の血餅所々に潴溜せる旨」の記載があることからみて、ひとり請求人のみ血の飛沫を浴びないということは容易に首肯しがたい。また引用の大島直の予審調書によると、同人は千種町元古井で湯屋を営んでいた者で、犯行のあつた「十三日夜九時半頃表に出て夕涼をなしいたる際、自分の立ち居る少し西の処にて一人の男が吃り声にて繭篭を載せたる荷車輓に道を教え居り又一人の男は早足にて自分の前を東へ通り越したり肩の張り工合、背恰好より考ふるに当時自分の前を東へ通り越したる男は示された男(請求人を指す)なりしと思われる」旨の供述をしているが、その証言自体からもうかがわれるように「肩の張り具合や、背恰好」からの推測に過ぎないような疑もあるし、その証言のように、もし足早に証人の前を通り過ぎた男が請求人石松であつたとするならば、犯行に用いられたという尺八を持つているのが目についたはずであつたと思われるのにその点については何等言及していないことが看過されてはならない。しかも右証言によると、同証人は被害者たる荷車輓のほかには吃りの男と東へ足早に通り過ぎた男との二人しか認めていないことになるが、しからば第一審判決の認定する被害者のほかに共犯者が二人ではなくして三人いたという事実はどのように説明されるのであろうか。

また第一審判決の援用証拠のうちに請求人石松が犯行に用いたという証第十四号の尺八(芳平の第二回予審調書による)が判決に引用されていないのは、尺八に血痕の附着した形跡が認められなかつたことによるのではなかろうか。

ともあれ第一審判決においては、芳平、庄太郎の前記供述調書のほかには請求人の着衣から一小斑点とはいえ、人血を検出しえたことをしめす小野瓢郎の右鑑定書が有力な証拠であつたことはこれを窺いしることができる。

つぎに第二審判決は請求人石松の有罪の証拠として

(イ)海田庄太郎、北河芳平の第二審公判における各供述

(ロ)北河芳平の第一、二回予審調書

(ハ)請求人石松の第二審公判における供述(当夜外出した事実とその時の服装に関するもの)

(ニ)大島直の予審調書

(ホ)第二審公判における請求人、庄太郎、芳平三名の身長測定の結果(請求人は庄太郎より約一寸、庄太郎は芳平より約一寸夫々身長が高い。)

(ヘ)検証調書

(ト)谷宝抱の鑑定書(被害者の創傷の部位程度、死因に関するもの)等が引用されているが、これを第一審判決のそれと対比してみると、第一審判決において有力な証拠とされていたとおもわれる請求人の着衣に人血を認めうるとする前掲小野瓢郎の鑑定書が、はやくもその引用証拠のうちからいかなる理由か、除外されていることがまず注目される。

第二審判決においても前掲大島直の予審調書は第一審判決と同様、しかもより詳細に引用されているのであつて、これによると、「吃音の男より先きに東に通越し行きし男は黒色の単衣を着し、草履か麻裏を穿ち居り、吃音の男の方が少し小さき様思いたり」という供述記載があるほか第二審判決は公判廷における身長測定の結果、請求人より吃音の庄太郎の方が約一寸丈が低いという事実を認め、これを証拠として引用しているところからみると、第二審判決においては右大島直の予審調書を重視していることが窺われる。しかしながら大島直の観察は先きにも触れたように、夕涼みにでて漫然と通行人を見ていた者の観察であるから、必ずしもその正確を保し難きものであることはいうまでもない。

さらに谷宝抱の鑑定書も第一審判決の引用よりはやや詳細になされておるが、これによると「戸田亀太郎の死体を検するに(イ)、(ロ)左右顱頂部後部の創傷、(ハ)右顳[需頁]部より耳上を経て後頭部上は右顱頂部に達する膨隆(ニ)後頭部右側の膨隆は相当重量を有する鈍体にて他為的に打撲せられ生じたるものにして、死因は打撲の為め頭部に(イ)(ロ)(ハ)(ニ)の諸創傷を生じ、頭蓋骨骨傷脳震盪脳表面出血に因る脳圧迫を起したるに因る」とあつて、芳平が犯行に用いたという玄翁がここにいわゆる相当重量を有する鈍体であることは明であるが、玄翁とはその重量において比較にならない尺八が「相当重量を有する鈍体」にあたるか否かについてもなお疑問がのこるものといわねばならぬ。かようにみてくると、第二審判決引用の各証拠のなかで、庄太郎、芳平両名の供述、ないし供述調書の占める証拠価値は第一審判決におけるそれの比ではない。

そこでつぎに第二審判決引用の庄太郎、芳平の各供述ないし供述調書を第一審判決引用のそれと対比して仔細に検討してみよう。

(1) 共同謀議の点について、

(イ)庄太郎の第一回予審調書(第一審判決引用)によると、「自分は大正二年八月十三日雇主大西仲蔵方にて夕食を喫し、硝子工場へ皈らんとし表へ出てたる際被告石松に出会せし処、同人は自分に向い工場にて一泊せしめ呉れと頼みたる上、古井坂を上り行きたるを以て自分も跡を追い其坂を上り大久手停留場の軌道を北へ曲らんとせし際車上に繭の空篭を載せたる一人の荷車輓自分に向い萱場への道を尋ねたるに付自分は湯屋の表を過ぎ牛乳屋の処より電車道に出て之を北に進まばよろしき旨を教へたり当時自分は凡五、六間隔りたる処に居りし被告石松に聞ゆる様態と大声を発し道を教へたるを以て石松は右荷車輓の行くべき道を知り何んとか為すならんと思い居たりしが、荷車輓は湯屋の前にて横道へ入らんとせしより若し横道に入らば石松が先きに聞き居たる道筋と異ることとなり、同人が事を為すに不便なりと思ひ道が違ふとて荷車輓を元教えし道へ引き出したり自分は石松が何か為すものと思いたりし故工場に赴き芳平に対し石松が繭の空篭を輓ける車輓を追跡せる由を語りたるに芳平は直く玄翁を携へ車輓を追駈け行きたる旨」の供述がなされている。第一審判決が引用している庄太郎のこの供述の内容からは同人が被害者に道を質ねられて教えるとき、わざと石松に聞えるよう大声をだしたというのであるから、何かその時悪心をいだくようになつたことは窺われるが、いつどこでどのようにして芳平やことに請求人との間にいかなる共同犯行の謀議が成立したかについては全く明にされていない。ただ庄太郎は右供述のなかで「石松が右荷車輓の行くべき道を知り何んとか為すならんと思い居りし云々」とか、「自分は石松か何か為すものと思いたりし故云々」ともいつているが、それだけでは強盗殺人の謀議としてはあまりにも曖昧なことはいうまでもない。

(ロ)芳平の第一回予審調書(第一審判決引用)によると、犯行の夜同人が雇われ先の大西仲蔵方の工場内にいると、「石松走り来り今夜よき仕事ある故手伝ひ呉れといひて立去り問もなく庄太郎も亦走り来りてよき仕事ある故行き呉れと述へたるより自分は玄翁を携え畔道を通り電車道を走り行きたるに石松は荷車の跡を付け行き自分に早くやつつけよと促したり云々」とある。第一審判決の引用にかかる芳平のこの供述内容からは「今夜よき仕事ある故手伝ひ呉れ」といつたという請求人石松の言葉や、「よき仕事ある故行き呉れ」という庄太郎の言に対し、芳平がどうして玄翁をおつとり刀に手にしてとびだしていくようになつたのか明でないし、少くとも請求人と庄太郎、芳平三名間に成立したという謀議に関する供述としてはまことに明瞭を欠くものといわねばなるまい。

(ハ)庄太郎の第二審公判における供述として犯行当日同人が「大西仲蔵方にて夕食を為し表に出て居りたる処被告石松が来り今晩はと挨拶を為したり其処へ繭篭を載せたる荷車輓か西方より来り古井坂を登り行くより自分等も其後より尾いて電車道の処迄行きたる処其車輓は萱場に行く道を聞きしに依り自分に於て其道を教へ自分等も教へし道を行きしに大島湯に達する手前に於て被告石松は自分に対し右車輓より金員を奪取せんと告けたり右車輓は大島湯の手前にて左に曲らんとしたる処被告石松は足早にて右車輓の処に行き、俺か道を教へ遣る故此方へ来れと云ひ其湯屋の前の方へ連れ行き、自分も其後より行きしに湯屋の前を通過し少し行くと石松は一寸番小屋に行き水を飲み来ると云ひ立去りたり自分と車輓とが電車道迄行きたる際には、既に石松は其処に来り待ち居りたり自分は其処より別れ番小屋に皈りたるに芳平は石松か今夜金円を奪はんと云ひたりと云ひ玄翁を持ち近道より出て行きしに付き、自分も鑿を持ち其後より電車道に行きたるに云々」とある。庄太郎はかように第二審公判にいたりここに始めて、大島湯の手前で請求人石松から右車輓の金員を奪取しようという話をもちかけられたとか、番小屋に戻ると、芳平は石松が今夜金円を奪おうといつていたとか、請求人石松を介し三者間に謀議の成立したことをおもわせる供述をしているけれども第一審判決引用の芳平の前掲第一回予審調書では請求人が「今夜よき仕事ある故手伝ひ呉れ」といつたというに過ぎないし、第二審判決引用の芳平の第二回予審調書によると犯行の夜庄太郎が小屋へ戻つてきて、「今繭売りが荷車を輓き電車道を北に行くが少くとも百円や百五十円は持ち居る故ばらして金を取る為石松が行き居るに付き手伝ひ呉れと申した」という供述があつて、芳平をその犯行に誘つたのは請求人石松ではなくして、却つて庄太郎のようにいつている。したがつて庄太郎の第二審公判における証言のように請求人石松を介し三名間に謀議が成立したのが事実であるとするならば、請求人石松こそは警察、予審、公判を通して終始一貫自己の犯行を否認していたことが窺われるけれども、「庄太郎、芳平の両名が予審や第一審公判においてもその犯行を自白し、請求人石松が首謀者のような供述をしながら、何故に庄太郎の右第二審公判における証言まで予審、公判におけるあらゆる角度からする取調(予審及び公判の取調がこの点に集中されたことは疑ない)に対し庄太郎、芳平の両名が謀議成立の経過についてのみ前記のような曖昧模糊たる言葉で、これを隠さなければならなかつたのであろうか。

(2) 請求人の尺八による被害者の殴打の点について、

芳平が原判示のように亀太郎の頭部を所携の玄翁で背後から殴つた直後、地上に倒れた同人の頭を請求人「石松が所持の尺八で殴つた」という点については、芳平の第一回予審調書(第一、二審判決引用)、庄太郎の第二審公判における証言は互に多くの矛盾撞着のうちにも、この点に関する限りはまことに符節を合するが如くであつて、とくに芳平は右第一回予審調書において、この点につき詳細な供述をしている。すなわち「石松は荷車輓の後を付け行き自分に対し早くやつつけよと申したる故荷車輓の後ろに進み右手に玄翁を振揚け力一杯二つ程荷車輓の頭を撲りたるに其車輓は後へ倒れる前一度荷車に積みたる空篭に頭を触れ其儘仰向けに倒れ石松は所持の尺八にて倒れ居る荷車輓の頭を三つ計り撲り云々」と芳平は供述している。

かように芳平がすでに玄翁で力一杯二回も被害者の頭を殴り血にまみれて倒れた被害者の頭をもし請求人がさらに尺八で三回も殴つたとするならば、前にもふれたように押収の尺八が血痕にまみれない筈もなく(特に周知のように尺八は孟宗竹の根部の根を削つた部分をも含め之を利用して作製された楽器であつてもし之を犯行の兇器として用いたものとすれば兇器としての威力の点から考へ恐らくはその根部の方で殴るのが普通であろうがそうだとすれば被害者の血液はその削られた根の部分に複雑な形で密着する筈である)、また請求人の着衣(証第十六号)に、たとえ芳平の着衣(証第十三号)と同程度でないにしても相当顕著な返り血の痕跡をとどめないわけがないようにおもわれる。しかるに兇器として用いられたはずの証第十四号の尺八は第二審判決においてもこれを証拠に引用していないところからみると、尺八には前記の如く血痕はもとよりこれを洗つた形跡もなかつたものと推測されるし、第二審判決が第一審判決の引用した請求人の着衣に人血に基因する一小斑点を認めうるとする小野瓢郎の鑑定書を引用証拠から除外していることにも益々疑が深められる。しかも芳平の右供述によると、請求人は仰向けに倒れている被害者の頭を尺八で三回殴つたというのであるが、被害者の創傷の部位は第二審判決引用の前掲医師谷宝抱の鑑定書によつて明なように、「(イ)、(ロ)左右顱頂部の後部の創傷、(ハ)右顳[需頁]部より耳上を経て後頭部上は右顱頂部に達する膨隆(ニ)後頭部右側の膨隆は相当重量を有する鈍体にて他為的に打撲せられ生したるもの云々」とあつて、いずれも後頭部にちかく、仰向けに倒れている被害者を尺八で殴打したことに因る創傷であるとは容易に首肯しがたいことがとくに注目されねばならない。

(3) 被害者の褌をとつてその首をしめた者について、

庄太郎は同人に対する検事の第二回訊問調書(第一審判決引用)によると「自分は石松の指図に従い倒れ居たる荷車輓の首に褌を巻き付けたるに相違なき旨」供述しながら、第二審公判においては「自分が鑿にて車輓の帯を切り石松が其者の褌を外し首に巻き声を出さぬ様になし云々」とその供述を変更し、一方芳平の第一回予審調書によると同人は「唸声を止むる為め石松は庄太郎に命し荷車輓の褌を解かしめ之を以て荷車輓の口の処へ巻き付けたり」と供述し帰一するところをしらない。

(4) 被害者の死体からその財布を奪取した者、

芳平は検事に対する第二回訊問調書において「自分は財布を取り之を番小屋へ持ち来りし旨」(第一審判決引用のもの)供述し、また同人の第一回予審調書にも「電車か来りたるにより三人共其附近の黍畑に身を隠し電車の通過したる後又電車道に出て自分が懐中を改めたるに縞の財布に二十銭銀貨五個十銭銀貨二個ありたる旨」(第二審判決引用のもの)と供述しておるのに、庄太郎は第二審公判において「自分が財布を取りたるに、石松が其財布は俺に渡せと云ひしにより石松に渡し、石松は其場より何れへか立去り云々」と供述しこの両名の供述の矛盾撞着にはまことにただならざるものがある。

(三)要約

かように芳平、庄太郎両名の供述は互に矛盾撞着をきわめ、変転つねなきものであるが、いまこころみに第二審公判における庄太郎の証言を主にして芳平の供述でこれを補足し両名の供述をまとめてみると、つぎのようなことになるであろう。

被害者の強殺は請求人石松が発意し、芳平、庄太郎の両名を順次仲間にひきいれ、石松が芳平を促して玄翁で被害者の頭部を二回殴打させ、石松自ら尺八で同人の頭部を連打し、石松が被害者の褌をはずし、石松自ら首をしめ、庄太郎のとつた財布も石松がこれをとりあげていずれかへ立去つたということになる。

しかしそうなると、その犯行は請求人のひとり舞台といつても過言ではない位で、請求人は芳平、庄太郎の両名を手足の如く使つていたことになるが、共謀の上の犯行であるというのに両名がいちいち請求人に促されあるいは言われるままに行動したということも容易に首肯しがたいものがある。ことに庄太郎についてはそうなるとこの犯行において同人の果した役割はわずかに被害者の財布をとつて請求人に渡しただけだということになる。しかしそれにも拘らず、芳平、庄太郎の両名は前記のように第一審でともに無期懲役という重刑に処せられながら、玄翁で殴つた芳平はまだしも、ほとんどこれという役割をしていないはずの庄太郎までも直ちに服罪しているのに対し、犯行の終始立役者であり、その独壇上であつたはずの請求人が控訴審において前叙の如く死一等を減ぜられ、芳平、庄太郎と同様無期懲役に処せられてもなお上告し、いな五十年に垂んとする今日、いまなお無実を叫んで争いつづけていることと考え合せてみると、両名がいち早く服罪したことにも何か不自然なものがあるように感じられないだろうか。

なおここに附言すべきことは庄太郎は右の如く第二審公判で一旦自分のとつた財布も請求人にもつていかれたと証言しているが、いずくんぞ知らん、芳平は前記のようにすでに検事の取調において芳平自身が財布をとつて小屋に持ち皈つた事実をとつくに自白し、その上予審の取調において前記の如くその在中の金員が二十銭銀貨五個十銭銀貨二個であつたことまでも、ことこまかに自供している。

しかも同人の右自供がでたらめのものでないことは第一、二審判決がいずれも被害額をその供述どおり一円二十銭と認定していることからも窺いしることができる。そうだとすると、庄太郎が第二審公判にいたつて、右の如く財布は自分が一旦とつたけれども、請求人がそれをとりあげていずれかへ立去つたと証言していることはまことに瞠目に値するものがある。庄太郎のかような明な事実に相違した供述が単なる記憶違いとはとうてい認めがたいので、少くともこの点に関する限り庄太郎はいかなる意図をもつて偽証を敢えてしたのであろうか。

なお芳平も同人の第一回予審調書によると「石松が人を殺して金をとるが如き気風の者なることは庄太郎の熟知せる所云々」と、自分自身としては直接知らない筈の請求人の人柄について推測を交えてまで悪しざまに供述していることも庄太郎の叙上の如き供述態度と関連してとくに注目されねばならぬ。

第四、芳平、庄太郎の偽証したことの自白、

本件再審請求の対象たる第二審判決において芳平、庄太郎両名の第二審公判における各証言その他の供述が証拠とされていることは前叙のとおりであつて、右両名がいずれもその刑を了え出所後、夫々第三者立会のもとに請求人に対し第二審公判において偽証したことを自供し、また第三者に対しても同様の供述をしていることはつぎのとおりであるから、果して第二審判決の証拠となつた両名の供述が真実に合致するものか否かの点を審究してみなければならない。

(一)芳平の偽証自白の内容とその覚書

請求人は刑務所出所以来、血まなこになつて探していた芳平が神戸市立救護院に収容されていることをつきとめ、昭和十年四月二十四日名古屋新聞記者池田辰二とともに、同救護院を訪ねて芳平に会つているが、その時の模様について右池田辰二(名古屋高等商業学校卒業後、名古屋新聞社に記者として入社、現在財界名古屋社の経営者)は証人として当裁判所の事実調(この証言は当裁判所において証言の内容を録音した)においてつぎのようと述べている。「北河芳平を救護院へ訪ねていき、石松と会わせたところ、『俺は無罪だ』とか『俺を犯人にした』とかいつて石松が芳平に飛びかかつていつたので、自分もびつくりして話をしてからにしようといつてとめても、石松がなかなかきかないので院長を呼んできて、石松と芳平をテーブルを隔てて座らせ四人で話あつた。石松が『俺は無罪だ』といつたので、院長が芳平にどんなことかと質ねた。そこで自分が説明すると、芳平は何のいいわけもしないで『吉田、すまん』と頭を下げた。石松は頭を下げるだけではいかん、証拠がほしいというようなことをいい、芳平もその時石松は事件に関係がなく、芳平、庄太郎の二人がやつたことであることを認めていたので、院長の提案でそういう趣旨の謝り証文のようなものを芳平に書かせた憶がある。会見の時の言葉のやりとりまではいまでは記憶がないが、当時の名古屋新聞に写真入りで詳細にその記事をのせたはずである。この記事の内容については当時の名古屋新聞与良社長は記事の正確をモツトーにし随分やかましい人であつたから、自分も会見記の内容については、絶対に誇張や事実をまげたようなことはなく、ありのまま書いたものである」と供述し、昭和十年四月二十五日の名古屋新聞(写真)によると、その対談の模様は

「石松――お前はなぜ自首して出ないのだ。

芳平――無言。

石松――俺はお前の居所を血眼になつてさがしていたのだ。

芳平――申しわけない。

芳平も石松もともに涙をながしている。

石松――俺は二十三年間無罪を泣きつづけてきたのだ。俺の無罪を知つているのはお前と庄太の二人きりだ。なぜ俺を罪にまきこんだのだ。

芳平――申しわけない。お前に罪はなかつたのだ、

石松――無言、

芳平――あの時事件は俺も事実知らなんだのだ。庄太にあとできかされた上に脅迫されたんだ。許してくれ

石松――俺とお前は一面識もなかつたはずだ。

芳平――全くその通りだ。取調の際に係官に石松も一諸だつたろうと云われ、俺はその時ハハンこれは庄太の狂言だと察して自分の罪を少しでも軽くするために、つい心にもなくお前を首謀者にしてしまつたわけだ。

石松――俺は調書を今でも暗記している。庄太のでたらめにひつかかつたのだな。おい芳平、俺の寃罪を認めてくれるんか。

芳平――すまん、すまん。

石松――じやあ、あすにでも自首してでよ。そして事件の真相を明らかにしてくれ。俺は死んでも死にきれないのだ。

芳平――自首でもなんでもする。俺はここで立派にお前の無罪を証明するために筆でかく。どうか許してくれ。」

とあつて芳平が池田証人と右救護院の院長の面前で請求人に対し、同人を罪にひきこんだことを平謝りに謝つて一言もなかつた当時の会談の模様が彷彿としている。しかして右池田証人のいう謝り証文というのは前記昭和十年四月二十五日の名古屋新聞紙上に芳平の覚書なるものの写真が登載されているが、これによると、「大正二年八月十三日夜名古屋市千種町の殺人強盗事件に関しては海田が私を脅迫し吉田を主犯とするようたくらみ、さらに公判に際してはデタラメの申し立をいたし罪を貴殿と私に転嫁いたしましたゆえ、成行上私の罪を軽くするため貴殿を主犯と申したのであります。右相違ありません、なお貴殿はこの事件に関係ありません」とあつて芳平の認印がその名下に押されているのである。

(二)庄太郎の偽証自白と詫び状、

請求人は出所以来の必死の努力と、司法関係の新聞記者等の協力によつて、ようやく庄太郎が埼玉県北葛飾郡彦成村上彦川戸六三に居住していることを探知し、昭和十一年十二月十四日都新聞の記者藤田幸男とともに右居住地に赴き庄太郎に会つているが、その時の状況について右藤田幸男(早稲田大学法科卒業後都新聞社に記者として入社現在財図法人東京新聞論説委員)は当裁判所の事実取調(前同様録音採取)において証人としてつぎのように述べている。「石松と自分は菊地写真部員と自動車で彦成村の庄太郎の住居を訪ねると、ひどいあばら家で折あしく不在だつた。近所にいた子供に行先を質ねると、庄太郎は雑貨のあきないをしているとかで、向うへ行つたというので、附近で待つていた。間もなく庄太郎らしい男が来たので隠れていると、やはり、庄太郎で車をひいて近ずいてきた。石松が飛びだそうとするのをしきりにおしとどめ、自分がでていき『海田さんですかお会いしたい人があつて連れてきました』といつて、名のつていると、石松がおどりでてきて『やいこの庄太』ということになつた。ところが庄太郎は石松を見ると、車をほおりだして一目散に逃げだし、自分もせつかく来たことでもあるので四、五十米追いかけ、ようやく追いついて『決して乱暴するわけではないから、話だけ聞いてやつて下さい』といつているところへ、石松がとんできて、『やいこの庄太、俺のことを知つているか』というと、庄太郎がその時の言葉どおりには憶えていないが、とにかく何んで忘れることができるか、毎日あんたのことばかり考えていた。あやまりに行きたかつたが、行けばあんたに怒られて殴り殺されるかもしれん。それがこわくて行けなかつた。すまなかつた。事件にまきこんでほんとうにすまなかつた。かんべんしてくれという意味のことをいい、道ばたにへなへなとくずれて四つんばいになつて頭をさげた。自分としても、まさかこんな場面にぶつかるとは思ひもよらなかつたがすぐ、写真におさめた。石松は庄太郎のいうことを自分がメモしていた時、同人をたたいたような気もする。しかし自分も石松に庄太郎と会う前、絶対暴力にでないよう注意しておいたが、石松も押えに押えていた気持が爆発したという感じがした。庄太郎は石松に長い間あんたをまきこんで迷惑をかけてすまなかつたと謝つたので、そこから大分離れた農家の軒先をかりて、そんなに申しわけがないというなら、後日の証拠に詫証文を書いたらどうかというと、庄太郎はその農家ですずりと筆を借り紙ももらつて詫証文を書いた。文面は庄太郎がお前をひきいれてすまなかつたというようなことを云い、そのとおりでよいということになつたと思う。文字は庄太郎が書いたものに間違なく、たしか詫という字を聞かれて自分が教えた憶がある。」と供述しており、藤田証人のいう右詫証文というのは昭和十一年十二月十五日の都新聞に登載されている写真によると「お前を引入れて悪かつた堪忍してくれい。罪が軽くなろうと思つて、うそを言うた」という文面の半紙一枚に書きなぐつた庄太郎名義の謝罪状であることが窺われる。もつとも庄太郎の右詫状については、請求人がその際同人に暴行を加えた事実があるようではあるが、もし請求人が所論のように寃罪であつたとするならば、庄太郎等に陥れられて獄窓生活二十余年の長きに及び、その間夢寐にも忘れなかつた仇敵にいまや、遂いにめぐりあつたのであるから、痛憤激昂ももちろん当然のことであつて、藤田証人のいうように押えても押へきれない気持から庄太郎に鉄拳を振うようなことがあつたとしても、その暴行の一場面のみを捉えて、右詫状が暴行脅迫によつて書かせたもので、真意にいでたものでないと断じ、その記載内容までも否定し去るべきものではないであろう。

しかし庄太郎の偽証の自白はこれに尽きるものではない。

(なお以上(一)、(二)摘録の池田、藤田両証人の証言は同証人等尋問の際の立会書記官作成のいわゆる要領調書の要旨を摘録したものであるが両証人の証言は前叙のとおり当裁判所の事実取調の際その証言内容を録音してあるから、その録音の内容を直接耳から聴くことによつて両証人の証言の内容の詳細並びにその信憑性の高く評価さるべきことが判るであろう。)

(三)ラジオ東京企画による請求人石松と庄太郎の対質訊問録音の速記録、その他

(1)ラジオ東京が収録した海田庄太郎、吉田石松対質録音記録によると、同社記者の問に対する庄太郎の供述は全体としてはまつたくのらりくらりとした何ともとらえようもない答で、これが真実を語るものの態度かと疑わしめるものがあるが、しかしそれでも記者のこころみた請求人が被害者に手を下したことは事実かという問に対しては「いいや、そんなことは知らない」と答え、記者に「あんたこの裁判書に書いてあるようなことでね、吉田や北河と一諸にやつたんだというようなことを言つているようになつているがね、そういうことをもし言うているとすれば、洵に二人に対して申訳ないという気持だね」と追及されると、庄太郎もついに「ええ、そうです」とようやく頭を下げ、さらに「その時はズート書いて向うが読みあげたから自分ではどうなつても構わない。そこで間違いないねて――はい、判こというから判こを押してきた」と弁解し、記者の「あんたがそんなあやふやなことをするから、ああいうように迷惑をする人もできる。そうゆうことあんた、これから先が短いといつたつて、いきられる人だから気をつけなけりやね」とだめを押されると、庄太郎も「わしがそこでヘエヘエそうだといつたのはわしが悪かつた」とついにかぶとをぬいでしまつている。

(2)庄太郎に対する法務事務官の調査書(昭和二十八年四月十日付)によると、庄太郎はここでも相かわらず、不得要領の供述をしているが、そのなかでも「私は何故公判廷で事実に反したことを供述したかといいますと、警察で取調べられたとき、蹴つたり殴つたりひどい拷問をうけたので夢中でしやべつてしまつたのですが、検事さんの前でも、予審判事の前でも、一度警察でしやべつてしまつたので、その通り供述したのですが、矢張り公判廷でもその通り述べたのであります」と嘘の供述をしたことについて陳弁これつとめている。また庄太郎に対する同じく法務事務官の昭和三十年六月二十二日付調査書によれば、この取調においても庄太郎は「只今判決原本を読んでもらいましたが、それと同じようなことを以前に予審判事に読んでもらいましたが、そのときは頭がカツカツして何もわからないで、私は「ヘイ」と答えて認めてしまつたのであります。うそを云うつもりでしやべつたのでないのですが、あのときはなんのはずみか、どうしてあんなことを言つたのか判らないのですが、吉田に悪いことをしたと思います。私も吉田の立場になれば、吉田の気持は判ると思います」とのべ、その弁明のなかにも、不実のことをしやべつて請求人を罪にひきいれたことを認めるような供述をしている。

第五、芳平、庄太郎の偽証自白の信憑性

有罪判決の証拠となつた証言をなした者がその判決確定後その証言を飜えし、虚偽の供述をしたことを認めたからといつて直ちに虚偽の事実が証明されたものと断じえないことはいうまでもない。

しかしながら芳平、庄太郎の偽証自白は右の如くいずれも請求人に対し第三者立会のもとにまたは第三者に対して行われたものであつてその偽証自白が真意にいでたものであることは、その会見に立会つた前叙の如き教養の高い、当時として有数な新聞社の若手記者として活躍していた前記池田辰二、藤田幸男のひしひしと胸に迫るもののある各証言(ことに右藤田証人の証言は記者としてその上司であつた青山与平の当裁判所の事実取調における証言によつて一層その信憑性が裏付けられる。録音参照)と芳平、庄太郎両名の自供の内容から十分に窺い知ることができる。もつとも庄太郎は前掲ラジオ東京企画の請求人との対質訊問や法務事務官の調査などにおいて、請求人を罪にひきいれたことを認めながら実は自分も犯行に関係がなかつたといつているので、その偽証自白もこうした自己の犯行の否認を前提とした供述ではないかという点に疑を挾む余地が絶無ともいえない。

そこで請求人が大正二年頃勤めていた加藤硝子工場の経営者であつて、庄太郎や芳平もそれ以前に雇つていたことのある加藤半十郎から当裁判所の事実調において証人としてこの三名の性格をきいてみると、「石松は真面目な信頼のできる男であつたが、芳平は頭が悪くアホ芳というあだ名のある役に立たない男で、庄太郎は頭がよく真面目そうに見えるが、嘘が多く、嘘がばれたり都合のわるいときは吃のせいか、わざとするのか、とにかく口を開けてウアーウアーと訳のわからぬことをいう癖があつた」と証言しており、小菅監獄から一宮警察署宛の庄太郎の身上票照会に対する大正三年五月三日付同署の回答書にも、同人は無類の嘘つきであるという記載がある。しかも当裁判所の事実調において庄太郎は証人として初めのうちは十分聞きとれる程度に氏名、年齢、職業、住所等を答え、「民生委員の保護を受けているか」という弁護人の問に対し「民生委員から月千八百六十七円もらつている」と述べたあたり迄は、前年わずらつた脳溢血のためか、小声で聞きづらいところがあるとはいうものの、十分聞きとれたのであるが、犯行の内容にはいろうとすると、忽ち顔を伏せて頷いたり首を横に振るだけで言葉を発しない。そこで顔をあげて返答するようにいうと、口を大きく開けて舌を喉に巻きこむようにしてただウアーウアーというだけで、かいもくその供述の内容はわからない(この点同証人尋問の際採取した録音によつて極めて明白である)。やむなく急きよ耳鼻咽喉科の専門医師橋本好司の来診を求め鑑定せしめたが、庄太郎の声帯鼓膜その他に何等病的異常のないことが明になつたのみならず、その診断中、同医師が偶々庄太郎の舌の先端をすこしつまんで引つぱると、同人はおもわず「痛い」とはつきり発声して悲鳴をあげ、関係者一同を唖然たらしめたこともあつて、証人加藤半十郎の前掲証言とおもいあわせて、庄太郎の虚言癖が若い頃からのもので、病膏肓にはいつていることが明である。

したがつて庄太郎がこれまで請求人やその他の者から原審における虚偽の証言について屡々きびしい追求をうけ、再三前記のように自己の偽証を認めておりながら、途中から実は自分も犯行には関係がなかつたのだというような余りにも見えすいた虚言を弄して恬として愧じないのも、同人のかような虚言癖からくる自己弁護のための便乗的供述であると考へざるを得ない。

以上の説明によつて原判決引用の芳平並びに庄太郎の原裁判所における証言の虚偽であつたという自白が、詫状文、覚書を含めその当時の状況から推断していづれもきわめて任意になされ十分信用するに足ると認むべき理由の解明ができたであろう。

第六、再審事由についての当庁の法的見解

再審制度はいうまでもなく判決の確定力と実体的真実の要求との衝突を調和するためのものである。判決の確定力を重視することは裁判の威信を保つうえに必要ではあるが、判決の確定力を重視する余り、もしこれを確定不動のものとすれば、実体的真実の要求が犠牲となり、それはかえつて裁判の威信を傷つけることになる。そこで法は確定判決の効力を消滅せしめる再審事由を定めているのであるが、わが現行の刑事訴訟法はかつての治罪法や旧々刑事訴訟法が再審をもつて刑事訴訟に関する一大原則たる判決の確定力に対する最少限度の例外として、きわめて狭い範囲においてのみその原由を認める制限的な列挙主義の立法であつたのに対し、比較的に実体的真実の要求を重視した旧刑事訴訟法と同様、再審の許否を実質的必要性に即して弾力的に決定しうる裁量的な包括主義の立法となつている。これはわが憲法の基調たる人権の尊重と人道主義的な寛容の精神を反映したものというべきであつて、再審立法のあるいは世界的趨勢にも合致しているといえよう。

さてわが刑事訴訟法第四百三十五条各号の列挙する再審事由は要するに、原判決の事実認定に誤認のあることがあらたな証拠によつて著しい確からしさをもつて推測されることを必要としている。しかして同条第二号は原判決の証拠となつた証言等が確定判決によつて虚偽であることが証明されることを再審事由の一として掲げるとともに、同法第四百三十七条は右の確定判決を得ることができないときはその事実を証明して再審の請求をすることができる旨を規定している。

(一)そこで、まず右のいわゆる「その事実の証明」の意義如何であるが、それは確定判決をうることができなかつた事実のみならず再審事由たる事実を包含するものと解すべきである。したがつて本件において芳平の虚偽自白の主張については、芳平がすでに死亡していることは記録上明であるから、原判決引用にかかる同人の証言が虚偽であつたことが証明されなければならないわけである。

(二)再審事由の証明がつねにあらたな証拠を必要とすることは前記のとおりであつて、右の第四百三十七条の場合もその例外をなすものと解すべきではないから、あらたな証拠によつてその虚偽の事実が証明されなければならないものとおもわれるが、ここにいわゆる「あらたな証拠」というのは新事実を証する証拠方法に限るのではなく、あらたな訴訟資料、すなわち新事実、新証拠の一切を包含するものと解する。本件についてこれをみるに、原判決の有罪の証拠となつた証言をした芳平や庄太郎が判決確定後前言を翻えし、偽証をしたことを自白したのであるから、この両証人は証拠方法としては原審において取調べずみであるけれども、その偽証自白そのものはなおここにいうあらたな証拠にあたるものといわねばならない。

(三)さらにこの「虚偽であつたこと」の証明に必要なあらたな証拠の証拠価値については、あらたな証拠を有罪判決のあらゆる証拠との有機的な関連において総合的に判断すべきであつて、これを既存の全証拠からきり離して、その証拠価値を評価することは許されないであろう。もしそうでないと、そのあたらしい証拠をあらゆる既存の証拠のうちに正しく位置づけて適確な評価をすることができなくなり、再審請求の認められる場合も、おそらくは著しく極限される結果となるものとおもわれるが、かくては実体的真実発見を重視し再審制度の運用に弾力性を与える前記包括主義の立法をとるわが刑事訴訟法の建前や、ひいては人権尊重と人道主義を基調としているわが憲法の精神にも背馳するであろう。

本件においてまず第一、二審判決、ことにその援用証拠の検討からはじめた所以もそこにあるのであつて、あらたな証拠価値を正しく評価するためには、これと有機的に総合判断さるべき既存の全証拠の把握がなくてはならないからである。

(四)そこであらたな証拠による虚偽の証明の度合についてであるが、通常既存の証拠のなかにも、有罪の認定にそう積極的証拠のほかに反対のはたらきをする消極的証拠も含まれているから、この積極、消極両証拠を対比するとき、積極的証拠の方がはるかに有力な事件もあれば、積極的証拠がまさるとはいえ、その差の比較的少いいわゆる微妙な案件もある。あらたな証拠による虚偽の事実の証明に必要な度合も、こうした事案のニユアンスによつて大いに異るものと解すべきであろう。もちろん右のいずれの場合でも、あらたな証拠を既存の全証拠に加え、これを総合判断することによつて、原判決の認定に誤認のあることが著しい確からしさをもつて推測されるのでなければならないことにはかわりはないが、後者のような微妙な案件においては、そのあらたな証拠によつて証明されることの必要な度合は前者のそれに必要なほど強力なものでなくてもいいであろう。

第七、結論、

さて本件事案がいかに微妙をきわめたものであるかは前記第一、二審判決の検討においてすでにみたとおりであつて、請求人を有罪とするきめ手となるような決定的証拠は存しない。ただ請求人の犯行を肯定する芳平、庄太郎両名の証言その他の供述記載があるけれどもそれらの供述が互に矛盾撞着し、変転つねなきものであつて、そのいずれを採り、いずれを捨つべきかに迷わざるを得ないものであることも前叙のとおりである。しかも前記のように芳平、庄太郎の両名はいずれも原判決の確定後その供述を翻えし、偽証したことを認めるにいたつており、ことに庄太郎の如きは再三、再四その偽証自白を認めているから、同人の自白がたとえ、前記のように自己の犯行をも否定する単純でない自白にかわつてきているにしても、本件事案の右の如き微妙性に鑑みるときは、原判決引用にかかる芳平の証言が虚偽であつたことは叙上の各証拠によりこの程度において証明されたものと認めなければならない。

ただここに附言すべきことは請求人はすでにみたように、これまで幾度となく再審請求をなし、その都度申立が棄却されているのであるが、昭和三十二年当高等裁判所に申立てられた再審請求事件をのぞき関係記録はすべて消滅していて、その棄却の理由はこれを確認しがたく、また右の昭和三十二年申立にかかる再審事件における昭和三十四年七月十五日付当高等裁判所の棄却決定によると、庄太郎の偽証自白(刑事訴訟法第四百三十五条第二号、第四百三十七条と同法第四百三十五条第六号とに基く)の主張が理由なしとして排斥されているにすぎない。してみると、本件再審請求において庄太郎の偽証自白を理由とする同一の主張が再審事由として許されないことはもちろんであるが、その主張も本件再審事由の一たる芳平の偽証自白の主張とまことに微妙な関連を有しているので、本件において芳平の偽証自白の主張を判断するにあたり、敢えて庄太郎の偽証自白の主張もこれを考察の対象からのぞかなかつたものである。

よつて本件再審請求は爾余の再審事由について判断するまでもなく理由があるので、同法第四百四十八条第一項に則り再審開始の裁判をなすべきものとし主文のとおり決定する。

(裁判長判事 小林登一 判事 成田薫 判事 布谷憲治)

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